令和2年の諏訪部祭は中止になりました
諏訪部権三郎定令(1751~1809)は権三郎定嶝の次男として鶴岡に生まれた。
権三郎は大変仕事の出来る人で庄内藩の色々と大切な役目を果たし、度々殿様よりお誉めの言葉や記念品などをいただいていた。
享和2年(1802)5月、遊佐郷(町)の代官となる。諏訪部権三郎と渡部藤四郎の2名で取り仕切っていた。
文化元年(1804)遊佐郷は鳥海山の噴火と大地震に見舞われた。記録によると鳥海山噴火や地震は577年を初めとして、実に27回(577~1974)を数えるが、その中で最も被害の大きかったのが、文化元年6月4日亥の刻(現在の午後10時)鳥海山を中心として発生した噴火と大地震であった。
このような状態の時に、何とか人々の心を落ち着かせて、元気を取り戻さなければと、代官・諏訪部権三郎、渡部藤四郎は、石辻村(蕨岡)に仮小屋の役所をつくり、方々に役人を派遣して実情を調べさせると同時に、激励に努めた。
食べるものも、寝る所もない多くの人たちを見て、権三郎は殿様の許可を待たないで、数カ所の郷蔵を開け人々に米を与え食べさせた。(殿様の許可をもらうのに2日~3日間を要した)その米は4,022俵、この処置は当時では考えられない大英断であった。
生気をなくしていた民、百姓の人々が元気を取り戻し、みんなで力を合わせ、倒れた家を直し、泥沼のような田畑の復興に頑張り始めた。
しかし、殿様の許可も取らないで勝手な振る舞いをしたということで、遊佐郷の代官から京田通りの代官に役替えをさせられた。
数年を待たないで遊佐郷は昔以上の繁栄を取り戻した。
人々は権三郎(文化6年5月 59歳で亡くなる)の思いに報いるために本願寺入口に石碑を建て、毎年5月15日「諏訪部祭」とし感謝の祭を行っている。
遊佐郷の被害の様子
①潰れた家 …………… 1,447戸 ②大破した家 …………… 644戸
③焼けた家 ……………… 19戸 ④潰れた土蔵 …………… 64棟
⑤大破した土蔵 ………… 52棟 ⑥亡くなった人 ………… 109人
⑦ケガをした人 ………… 70人 ⑧焼け死んだ馬 ………… 149頭
⑨ケガをした馬 ………… 28頭