毎年多くの登山者が訪れる鳥海山ですが、鳥海山は立派な活火山です。
直近の噴火は1974(昭和49)年3月1日、鳥海山上空を飛行していた民間航空機の操縦士が発見・通報しました。
幸い大きな被害はなく収束していますが、153年ぶりの噴火に地元自治体は入山規制など対応に追われました。
1804年5月の噴火では大地震も発生し、当時の遊佐郷は甚大な被害を受けました。200年以上前の出来事ですが、地球規模の時間軸で考えればほんのちょっと前のこと。改めて活火山であることに留意をお願いいたします。 詳しくはこちら 鳥海山火山防災マップ_噴火の歴史(遊佐町)
<参考>古代における鳥海山の噴火・噴煙・鳴動の記録
貞観13年(871)4月8日鳥海山の山頂が噴火する。この噴火は、かなり強烈であった。すなわち、貞観13年5月16日の記事によると、「山上に火あり。土石を焼く響きあり。雷の如し。山により出づるところの川では泥水が溢れ、その色は青黒くなり、臭気が充満し、聞くに堪えない。多くの死魚は浮かんで流れないでいる。10丈(30メートル)くらいの大蛇2匹が流され海に入った。小蛇の従うものは数えきれないほどである。流れに添って損壊する苗稼が多い。また、濁水で臭気が止まない。草木は臭朽して生じない。古老に聞いても、未だかつてこのような異変はなかった。」三代実録とあり、溶岩や泥流の発生を観測していることがわかる。
この噴火で溶岩流・泥流が山頂噴火口の北側周壁を破壊して由利地方に向かって流化し、川水が青黒く変色して氾濫し、沿岸の堤防が崩壊したとみられる。
この頃、地元役人からの報告を中央政府は次のようにまとめている。「大物忌神社は飽海郡にあり、山頂の巌石は壁立し、人跡もまれである。兵乱・凶変あるごとに祈祷をしても、後で報賽をしなかったので、山神を怒らせてしまい、噴火という災異をなさしめたものであるから、災いを取り除くよう鎮謝報賽すべきである」と。
『鳥海山 -自然・歴史・文化-』より抜粋
「大物忌神」の特徴は、噴火などのたびに、大和朝廷が「神階」を昇進させたことや、
現在の「吹浦口之宮」が貞観4年(862)に「宮社」に、十世紀に「式内社」に列格するなど、他の神々に比べて厚遇されたことだという。神階の昇進回数は古代だけで7回。南方で賊徒と交戦していた遣唐使船が、大物忌神の神力によって形勢不利から逆転勝利したというのも昇進の一例。